放射能とナショナリズム (フィギュール彩)
本, 小菅 信子
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ペーパーバック : 189ページ ページ
作者 : 小菅 信子
出版社 : 彩流社 (2014/2/18)
コレクション : 本
ISBN-10 : 4779170109
フォーマット : 単行本
発行日 : 2014/2/18
平均的な顧客フィードバック : 4.9 5つ星のうち(6人の読者)
ファイル名 : 放射能とナショナリズム-フィギュール彩.pdf (サーバー速度24.38 Mbps)
ファイルサイズ : 28.76 MB
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作者 : 小菅 信子
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コレクション : 本
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ちょっと長い感想になります。3.11の東日本大震災と東電第1原発事故の被災地からは遠く離れてはいるが傍目には同じ被災地にしか見えない福島県の会津にいて事態の推移を見つめてきた中で最も違和感、いや反発を抱いたことは、福島が「フクシマ」と勝手に名付けられて「放射能汚染」と「反核」の「聖地」に貶められたことだった。原爆の被災地長崎広島と福島を同じ原子力被害という安易な連想からヒロシマ・フクシマの語呂合わせに飛びついて同列に扱うことの不当さに異議を唱えることすら許されない空気が蔓延してしまったことに呆れた。誰もその途方もない誤りを指摘する者はいなかった。そのような中で、この本は震災後3年を経てためらいながら意を決して、「反原発を掲げる平和運動が思い描く、反核平和としてのフクシマは存在しない。『フクシマ』という表記は他者による表象である。」ことを明確に言い切った保守派ではない、どちらかと言えば人道派の知識人から発された数少ない「原子力の神話化」への批判の書である。「原子力や放射線をめぐる科学的知見をもたぬマスメディアの報道が風評被害を増悪させ、日本社会の不信の連鎖を強化している側面があることももはや見逃せない」「日本のメディアや論壇はあいかわらず反原発熱ともいうべき熱病から全快していない」「この三年のあいだ、福島はどれだけ政治利用され、どれだけ商品化されただろう。『安心』を売り物にするために、『危険』を煽るために、『安全』でなくてはならないために、福島はどれだけ傷つけられただろう。」「『フクシマ』」という他者表象は」F1の電力に恩恵を得ていたはずの「『東京』が、みずからの罪悪感や受益者としての恥辱を忘却し、福島に生きる人々にそれらを転嫁し、福島をエネルギー植民地から反原発の聖地として支配するための名付け直しだったと私は思う。」これらの引用文のどれも福島にいるわれわれの気持ちを代弁する正当な指摘であろう。一方で、このような物言いをする著者が冒頭で述べているように原発事故初期からわき上がった反原発言論の嵐の中で御用学者として罵倒の洗礼を受けた事も容易に想像できる。しかし、実はこのように明確に言い切っている部分だけを引用するのは著者にとって不本意かもしれない。著者は明晰な批判を貫くよりも自らもまた「他者の災禍や苦痛を『売り物にして生くる人』ではないかとの自問自答」を絶えず繰り返している。自問自答は議論を迷走させる。他者への批判が自分に突き刺さるのを避けられないために言い淀んでしまうからだ。メディアの原子力神話を破砕するポレミッシュなスタイルで読者を導きながら時に議論が堂々巡りをしているような印象があり正直な感想として読後感がなぜかすっきりしないのはそのためであろう。著者はなぜ自問自答するのだろう。一つは、著者が単なる書斎の知識人でなく、いても立ってもいられない心情に突き動かされて早くから被災地福島にボランティアとして幾度となく出向いて避難している被災者と向き合ってきたことで、あまりに被災者の痛みに感情移入しすぎて明確な意見を持って割り切る事にためらいがあるからだと思われる。その個人的心情の背景には後書きで明かされたように著者の亡母の思い出と東北が切り離せない事や自身の持病である免疫系疾患の難病で苦しむ境遇から他者の痛みへの思いやりの意志を信念のように保持している事があるかもしれない。もう一つは、上記に結局起因する事かもしれないが、「相哀れんで同情すること」と著者が定義する「人道」のルールをもって長年にわたり英国人捕虜と日本との和解問題に当事者との対話を通じて取り組んできたことが、政治的立場や思想的信念から事実を一面的に解釈し固定化する事を戒める歴史家としての誠実を育んできたためだろう。 著者の個人的な誠実さも歴史学者としての誠実さも疑いようがないが、私的な心情と史学者としての判断が入り乱れているためか、体験的な記述は時に痛々しいほど真に迫って読ませる反面、公的な議論が紋切り型に見えてしまう箇所が気にかかってしまう。例えば終章で被災地の苦難の解決策として提案するかのように述べる以下の言説のむなしさはどうだろう。「現下の日本社会の喫緊の課題は、被災地・被災者へのいたわりと思いやり、共苦の政治、そして、それを具体的に『政策化』し、実施していく事によって、広域大災害後の日本社会で多少なりとも信頼関係を再構築することだ」こんな官僚の作文のような、教壇の左派学者のような政治的なことばは被災者の生の現実に寄り添ってきた「誠実」な著者には言ってほしくなかった。それより何より最大の不満は、本書を読む気にさせた原爆被災者と福島の原発被災者を同列はおろか比較する事自体間違いではないかという最初の疑問に結局最後まで答えてくれなかった事である。期待していた第2章「福島とフクシマのあいだ」で展開されている議論は、その違いを追究するのではなく、地震津波の被災避難者、原発事故での被災避難者、原爆被爆被災者、そして英国人捕虜体験者の痛みをいつの間にか同列に扱う議論へと移行しているといわざるをえない。この章で著者は、「福島」を「フクシマ」と表記することへの疑念と不当性を導入部としながら、それを「犠牲や被害者に過度に依存した主張や議論が、往々にして問題を過剰に政治化した問題性」と一般化して総括し、自身の自問自答の始まりになった戦死者や戦争捕虜の苦しみや災厄を叙述して業績としていることの「業」の「問題性」と合わせて長崎の原爆罹災や英国人捕虜の原爆賛美がはらむ問題へと話題を変えてしまっている。「ヒロシマ」とイメージ連想させる「フクシマ」の表記が意図する原爆被災の悲惨さと原発事故程度の被害を同一の問題とする思考はなぜ間違っているのか。それは、福島原発事故の被災者を政治利用して傷つけることだけではなく、質的にも量的にも比較を絶する広島長崎の原子爆弾による灼熱と爆風に直撃された「被爆者」や爆発後の高線量放射線「被曝者」の悲惨と苦しみを福島のレベルに矮小化することにおいて間違っているのである。実はこの第2章で著者は、原爆投下の災禍について、赤十字国際委員会の要請を受け寄稿した長崎の原爆投下直後の初期医療救護についての歴史事実の叙述を通じてそれがいかなる地獄だったかを30ページに渡り掲載している。これを読むだけでもこの本を手にする価値はあると思う。何より著者の私情や解釈を一切廃して記録が示す原爆災禍の事実だけを示したこの報告を読み進めていくに連れ、改めて福島の低線量被曝(被曝ですらないかもしれない)の問題など比較すること自体恐れ多いと確信させるに十分だった。原爆災禍の残虐さは爆発による熱線と爆風が原因の大半である。放射線被曝による人体損傷は二次的な災厄である。だがそれさえ福島とは比較を絶する。「投下から一週間と経たぬうちに、浦上第一病院でも、即死をまぬがれ安堵していた人びとの顔色がどす黒く変わり始めた。『一夜にして髪の毛が抜け、鼻や口から血を吐き、出血多量の下痢をする者が多くなった(中略)自分は奇跡的に助かった、無傷だと思い込んでいたひとびとも、その後に起こった放射線による全身障害で、次から次と死んでいった。』」「原子爆弾の中心地から五百メートルから二千メートルの距離で被爆した人々が、この四十日間の間にほとんど死んでしまったのである。」明らかに五千ミリシーベルト以上の高線量放射線による確定的影響である。著者は「被爆」と「被曝」を混同して記述しているようだがそれはまあいいとしよう。疑問とするのは著者が原爆の「ほんとうの恐ろしさ」を爆発による破壊力よりも生存者の放射線被曝にしていることである。核爆発による十数万人の殺傷よりも生存者の放射線被曝後遺症の方が恐ろしいというのはおかしいのではなかろうか。この報告の最後に長崎の医師たちの医療活動の詳細な記録が広島と長崎の惨状を世界に知らせ冷戦期に核保有国に核兵器の利用を思いとどまらせるための抑止力として機能したと赤十字のアジア代表が述べていることを紹介している。似たようなことをあの三島由紀夫が昭和四十二年の原爆の日に「私の中のヒロシマ」というエッセイで述べている。「原爆に関しては、体験した者と体験しなかった者、被爆者と被爆しなかった者という二つの立場以外、絶対あり得ない」から戦後22年間原爆について発言しなかった、と前置きして終盤にこう述べる。「第二次大戦中、広島で原爆が使われたという事実、たくさんの人が死に、今も肉体的、精神的に苦しんでいる人がいるという事実がなかったとしたら、観念的にいくら原爆の悲惨さがわかっていても、必ず使われたろう。人間とは本来、そういうものである。その意味でヒロシマこそが、最大の『核抑止力』であった」これに続く以後の世界情勢下の核抑止力の崩れの可能性について実に予言的な洞察を述べているのだが興味のある方は探してお読みください。いずれにしても著者は本書で戦争や災害の被災者の「災禍や苦痛」を連想キーにしてどれも等価であるかのような扱いをしてはいないだろうか。しかしながら、長崎の原爆投下直後のルポを本書に載せたことでそれがいかに等価でないかという認識を読者に与えてしまった。それは本書の意図せざる効果なのか、それとも福島と広島そして長崎は同じではないと言えない著者の深慮遠謀なのか、圧巻の「第2章福島とフクシマ」のタイトルと内容がまるで合わないことへの読後の疑念である。どうか福島の被災者を原爆の被災者と同じ同情を寄せたりして甘やかさないでいただきたい。地震津波で避難を余儀なくされた点で福島も宮城も岩手もその苦労と心痛は同じである。ただ福島は低線量放射線を過大な恐怖とする幻想が世界に蔓延してしまったために帰るに帰れなくなっているだけである。この状態は今の日本の空気のままだと福島原発の完全廃炉まで続くだろう。しかし帰れなくても原爆被爆者のような悲惨な境遇ではない、ということをはっきり言っていただきたいと思う。
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